お洒落なひとと、お洒落に見られたいひと。
一体なにが違うんでしょう?どちらも行きつく結果は同じなのではないだろうか。
『お洒落してみたいな』と思い、初めて意識してお洒落をし、お出かけすると普段となんだか景色が違う。
ドキドキし、高揚し、そんな自分に恥ずかしくなるような、不思議な感覚。
ただいつもと服が違うだけなのに。
『もっとお洒落になりたい』と雑誌を読み、ショーウィンドウやアパレル店員さん、道行くひとを観察する。
服を買う、コスメを買う。
練習する、そして新しい自分やキレイな組み合わせを見つけると嬉しい気持ちになる。
ある日、『何かちがう』と感じる。
目指していたものと違うの?もっと素敵な自分になるはずだった?
一番やりたいのはこんなことじゃなかった?もっと違う場所にいるはずだった?
鏡に映る自分の姿は、かつてワクワクして輝いていた私じゃなかった。
年齢を重ねると、似合うものの幅も減ってくる。
若さは色味も、形も、全てをカバーしてくれていたから。
気に入って着ていたはずなのに、いつの間にかしっくりこなくなっている。
去年はあんなに素敵に見えたのに。
私が好きだった可愛らしいシルエットと組み合わせは、今の私には似合わない。
お洒落に見えるかどうかには、とても不思議な項目がある。
『その人が、自信をもっているかどうか』である。
どんなに奇抜でも、自信をもって着こなしている立ち居振る舞いから、目を惹かれた経験はないだろうか。
美意識とは不思議なもので、良心や、倫理的価値観と違い、人によるバラつきがかなり出る項目とは、哲学者イマヌエル・カントの言葉である。
お洒落に見られたい人は、ファッション雑誌やトレンドを追い、多くの人が「美意識」としてインプットした情報の中から、自分の”好き”を組み合わせることが多いだろう。
なぜならそうすることで、多くの人が「お洒落な人」と思うからである。
多くの人が評価する、ということを軽視しているわけではない。
現在高く評価されている美術界の巨匠ですら、誰かの目に留まり、誰かの評価を受け、多くの人々が受け入れることで今の立ち位置に君臨しているのだ。
では、人の目を意識しない、ただ自分が好きだと思うお洒落をする人は、お洒落ではないのか。
その評価をするのは、他人であり、自分自身だ。
その評価が欲しいかどうかを決めるのも、自分自身だ。
バランスや調和を取ることで、ある程度お洒落に見せることはできる。
だから、お洒落になりたいし、見せたければ、バランスのとり方のロジックを学んでいけばいい。
けれど、それは自分の『好き』を突き詰めることは少し違う。
そして自分の『好き』は、万人受けするものではないかもしれない。
無人島でひとりで生きていたら、絶対にお洒落なんてしないと思うなら、今現在もきっと周りの評価と自分の好みを上手くブレンドしていった方が楽しい。
でも、服が好きで好きで、コスメが好きで好きで、自分の『好き』をただただ追及することも、きっととても楽しいだろう。
大事なのは、自分がどちらのタイプなのか、きちんと認識しておくことだ。
そうすれば虚しく満足できない行動で消耗することなく、目的に沿ったお洒落を楽しめるようになる。
そして自信を持った立ち居振る舞いで、お洒落を引き立てることができる。